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雲州屹屹 その一

雲州屹屹 その一

 長らくブログを放置していた。先日の島根旅行のことでも書いておこう。

 山陰は予てより行ってみたいと思っていた場所で、本州では唯一未訪問の地域だった。偶々友人Sと話が合ったので、Go to Travelでいざ雲州。

 

 初日、最終日は神戸の友人O宅に泊めてもらうということで、まずは新大阪まで新幹線で向かう。この新幹線もGo to travelで友人Fが手配してくれた。往復1万3千円で、地域共通クーポンが3千円分。即ち実質1万円、即ち実質無料である。

 

 実質無料の新幹線に乗車すべく東京駅八重洲口へ。台風が接近していたこともあり、空模様は陰鬱だ。雨に濡れたタイルが良く滑る。

 新幹線の出発は午後三時だったが、昼食は切ってあった林檎を2つ頬張っただけで空腹だったので、「品川名物貝づくし」弁当を買うことにした。茶飯の上にホタテやしじみ、アサリなどが敷き詰められていて中々美味い。しかし食べながら、島根でも美味しい貝類は食べられたな、と思った。まあ美味ければ何でもいいか。

 

 車内は割と混んでおり、隣にもおじさんが座ってらした。駅弁をむしゃむしゃ食べながら、車内でオンデマンドの授業を受ける私のmulti-taskingの様があまりに落ち着かず忙しかったためか、彼は長い間席を離れていた。原因が私だったら申し訳ないことである。

 

 車内でオンデマンドの授業を受けたと書いたが、スマホでは再生速度の調節ができない仕様らしく、解説が随分冗長に感じられ内容は殆ど入ってこなかった。そんな空虚な時を過ごしているとすぐに新大阪駅に到着。

 雨脚は少し強かったが阪急南方駅までAnti-Kotsuhi-Walkingを敢行、十三で乗り換え六甲の友人O宅へ。

 

 夕食をどうするかの話になったが、「カレー食べ放題のとんかつ屋」という聞き捨てならないPower-Wordを耳にしたため、そのお店へ。

 

tabelog.com

 

 スキー場の食事で使われるような軽量で哀愁を感じさせる皿には肉厚なトンカツが盛られ、様々な漬物類とカレーは御替わり自由、テーブルに置かれた炊飯器からは無限の白米が煌めいていた。美味かった。

 

 胃袋を満たしきった後は水道筋の灘温泉という温泉へ。露天は少しぬるく随分鉄っぽい臭いである。友人2人と駄弁っていたらおっさんが会話に入ってきた。無視するのもあれなので、持ち合わせる社交力を調整しつつ絶妙に微妙な応対。会話は露天風呂同様ぬるいもので、これといった盛り上がりを見せることなく、おっさんは会話と湯船から離脱した。賢明な判断である。確かこの辺りのどこまでは昔海だったとか、ヤン・ヨーステン八重洲の地名の由来になっただとか、都市伝説がどうこうみたいな話だったか。まさに数時間前に八重洲口にいたなということを思い出させてくれる話であった。

 

 湯船から出た後は、2階で休憩していた。布引の天然水を使用したとかいうダイヤモンドレモンなる地サイダーを飲んだ。今調べてみると数年前にTVで紹介されちょっとした話題になったらしい。フランスの高級香料を使ったとも書かれていた。言われてみれば口当たりは優しく料理なんかには合うかもしれない(適当)。瓶も洒落ていたので一応蓋は持って帰ってきた。再び友人O宅へ戻り就寝。初日は終わり。

 

 

日記 渋谷散策 ―悪名高きミヤシタパークへ―

日記 渋谷散策 ―悪名高きミヤシタパークへ― 2020.9.18

 昨日は午前中、本を読んでいた。「大河の一滴」という本である。昔から我が家の本棚に鎮座していた本で、確か母親のものだった。大昔の自分が読もうと思ったのだろう。物が散乱している私の汚い机から発掘されたので手に取ってみた。

 

 勝手に小説かと思っていたら、随筆らしい。ブッダ親鸞の考えに倣っているらしく、「人生とは苦しみの連続だ」とか何とか書かれている。「昔に比べて現代は便利になったが、それでも人が抱えている苦しみの大きさは変わらない」的なことも書かれていた。これには、成るほど、そんなものかも知れないな、と思ったが、語られている死生観や価値観にはあまり共感できなかった。読んでいるのが苦しくなってきたので、確かに人生は苦しみの連続だな、と思って一旦本を閉じることにした。またいつの日にか開こう。

 

 読書を終了したくらいのタイミングでインターホンが鳴り、Amazonからデカい荷物が届いた。キャスター付きの収納ボックスみたいなやつである。屋上用だ、と親が言っていたので屋上に運んでおいた。何に使うのか知らないが、多分死体でも詰めておくんだろう。

 

 特にやることもないので渋谷散策をすることにした。恵比寿から明治通りを歩いていくと左手に渋谷ストリームが見える。このあたりは随分と新しくなった。稲荷橋広場あたりの景色はおしゃれな感じにも思えるが、何しろ目の前を流れている渋谷川が半端なく臭いので台無しである。

 「渋谷」という地名の由来にもなったと言われる渋谷川関東ローム層が何とかで昔は鉄が溶けて赤みがかった渋色の川だったらしい)は今ではすっかりドブ川なので、街自体もドブ谷と改名してもいい頃だろう。ドブ谷109、ドブ谷スクランブル交差点。昔の闇市っぽさが出ていて悪くない響きだ。

 

 そんな渋谷川の香りを堪能した後は、悪名高きミヤシタパークに行ってみた。

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ミヤシタパークのクソキモコンセプト

 卵にキャラメルを混ぜるという画期的な建築方法で出来上がったらしいこの複合商業施設は、なるほど、外観からしてもケィオス(ネイティブ発音)な感じがする。全体的に灰色で鉄っぽく無骨ながらもスタイリッシュな雰囲気と、公園の緑、渋谷横丁という飲み屋の妙に暖かな雰囲気が実にミスマッチだった。多様性、多様性。

 結果的に色々なものが混ざり合って出来たケィオス感と、人工的に作り上げられたケィオス感は全く違うものだなと思ったが、まあ一般的には最先端で優れたデザインなのかもしれない。アパ社長の家の感じとも似ているなと思ったが、個人的にはあっちの方がまだセンスがあって好みだ。

 

 中に入ると自分のことをおしゃれだと思っていそうな人が沢山いた。事実そうなのかもしれない。私のような陰キャには入りづらい店が沢山並んでいる。暑い中1時間も歩いたのでTシャツに汗が染みており一層この空間にいることが憚られたが、折角来たので幾つか店を見て回った。居心地が悪くて苦痛である。人生は苦しみの連続、午前中に読んだ説教臭いあの本は当たっていた。

 

 屋上に上がると「公園」が広がっている。風は強かったが、芝生や木々があって快適な環境である。治安が悪かった旧宮下公園と比べれば、憩いの場にはなっているだろう。まあ公園だのパークだのと名乗るなら、営業時間があったり、スケートボードをするのに金がかかったりするのは随分とおかしな話で、文句もあるが、ここではこれくらいにしておこう。デパートの屋上と特に変わらない、という感想だ。

 

 帰りはスクランブル交差点に寄り道した。3,4月頃にはニュースでスクランブル交差点に人がいない的な映像が流れていたが、随分復活していたので何よりだ。スクランブル交差点は相変わらず、色んな臭いが混じった甘ったるい臭いがする。臭え。安心する臭さ。人の営みの臭いだ。ああ、これが渋谷だよな、と思いながら歩いて帰路についた。まあ10kmくらい歩いたか。以上、昨日の散策。

麻布十番と蕎麦

麻布十番と蕎麦

 

 

 最近は大分涼しくなってきた。この駄文をしたためている間にも外からは鈴虫の鳴き声が聞こえる。しばらく外出という外出もしていないうちに、すっかり夏も終わったようだ。

 秋と言えば蕎麦が食べたくなる。夏蕎麦も美味しいが、やはり旬に食べたいもの。秋の新蕎麦(秋新)は薫り高く味も良いと評判だ。

 (そういえば「夏蕎麦は犬も食わぬ」なんて言葉があるけど普通に夏蕎麦も美味しいと思う。私が馬鹿舌なだけか?)

 

 私の最寄り、麻布十番駅周辺には蕎麦屋が何件も立ち並んでる。年末になればテレビ局のカメラが入ることもあり、店前に列をなして年越し蕎麦戦争の様相を見せる。どの蕎麦屋が美味いか?それは私にも分からない。

 まずもって十番には似たような名前の蕎麦屋がある。更科系の三店、麻布永坂更科本店、長坂更科布屋太兵衛、更科堀井である。幼少期から当たり前にあったので、あまり不思議にも思わず、てっきり暖簾分け的な感じかと思っていたが話はそう単純でないらしい。Wiki様と店のホームページの沿革なんかを頼りに、私自身の勉強がてら紹介していこう。

 

更科蕎麦とは ー蕎麦御三家ー

 そもそも更科とは何ぞやという話である。江戸の町には沢山の蕎麦屋があったが、大きく三つの系統があったらしい。江戸蕎麦御三家「砂場」「」「更科」である。

 いいねえ。こういう御三家とか言う響き、つい浪漫を感じてワクワクしてしまう。

 

 「砂場」は大坂を起源とする蕎麦屋で、大坂城築城の際に資材の砂置き場に店を構えたのが由来らしい。虎ノ門にある『虎ノ門大坂屋砂場』、日本橋室町にある『室町砂場』(天ざる、天もり発祥の店らしい)、砂場系統2つのうちの本家で最も歴史が深いという南千住の『砂場総本家(南千住砂場)』などがあるらしい。ほ~ん。

 

 続いて「藪蕎麦」。緑の蕎麦という印象しかなかったが、これは蕎麦の若芽を練りこんだからだそう。つゆを少ししか掛けないというのが江戸の粋な食べ方だったらしく、つゆが塩辛いのが特徴らしい。「藪」という名称は、雑司ヶ谷にあった「爺が蕎麦」というお店で、竹藪が繁茂していたことが由来だそうだ。

 藪蕎麦について調べていたら「枯淡な感じで、気取りがなくて、あか抜けている。」なんて表現があった。枯淡っていい表現だな。今度から使おう。そんな藪蕎麦の老舗は本家筋の「かんだやぶそば」、浅草雷門にある「並木藪蕎麦」が有名みたいだ。

 

 「更科」。信州高遠の保科松平家の御用布屋だった堀井家の8代目堀井清右衛門が、寛政のはじめ(1789年)に、江戸麻布永坂の三田稲荷の下で「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」と看板を掲げたのが始まりらしい。「更科」というのは堀井家の故郷信濃の、蕎麦の集散地だった更級と、領主保科家から一字ずつ頂戴したものだそうだ。

 随分と前史が長くなった。ここからその後の騒動を見ていこう。(ややこしいので適宜飛ばしてください笑)

 

 

「更科」を巡って

 

 1789年に開業したこの店は、将軍家御用となったり、増上寺と誼みがあったりで随分と繁盛したらしい。江戸買物独案内とかいう江戸のグルメガイドブックにも「御膳 麻布永坂高いなりまへ 更科蕎麥所」とある。こういうの見られるの面白いよね。

  江戸買物独案内 2巻付1巻. 飲食之部 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 神田や深川なんかに分店、支店ができ、麻布永坂一門は8店舗にまで拡大。が、昭和に入り、世界恐慌の煽りを受けるなど経営は厳しくなり、昭和16(1941)年に廃業。

 

『麻布永坂更科本店』

 戦後、1948年に馬場繁太郎という料理人が『永坂更科本店』を開店。これは布屋太兵衛の七代目堀井松之助と馬場繁太郎との間で、「永坂更科」の商号の使用に関して公正証書による契約を結んだことによるもので、1950年には『麻布永坂更科本店』と名を変えた。馬場繁太郎という人は元々戦前から港区内で食堂を営んでいたらしい。

 ➡『麻布永坂更科本店』 お店は新一の橋にあります。商店街のメインストリートからは少し離れたところですね。

www.sarashina-honten.com

 

『永坂更科 布屋太兵衛』

 1949年、七代目堀井松之助、麻布十番商店街の小林玩具店麻布十番商店街組合長により、合資会社麻布永坂更科 総本店』が設立された。一応伝統の暖簾が復活したかたちということらしい。この時に「永坂更科」の店名商標登録が法人取得されている。

(というか小林玩具店って今も十番にあるんだよね。創業は1867年。そんなことにも携わってたのか。)

 

 さて、その後『麻布永坂更科 総本店』は、商号侵害をめぐって上の『麻布永坂更科本店』と調停を行い、両店とも同じ商号を使うことに(1984年にも争っている)。そこからは良く分からないが、1959年小林玩具店小林勇が『永坂更科 布屋太兵衛』を設立。

 ➡1959年、この『永坂更科 布屋太兵衛』が『麻布永坂更科 総本店』を吸収合併するかたちで現在も続く『永坂更科 布屋太兵衛』がオープン。商店街のメインストリートにあります。「布屋太兵衛」もこのあたりで商標登録されたっぽい。

www.nagasakasarasina.co.jp

 

総本家『更科堀井』

 1960年、後の『更科堀井』の八代目、堀井良造は永坂更科 布屋太兵衛』に入社。専務取締役となったが、1984年会社を離れ独立。創業者の血筋である堀井家のもとで再興したいという思いから、信州更科 布屋総本店」を開店。後に、店名の「布屋」の使用権を巡って裁判となり、「更科堀井」と改称した。

 ➡暗闇坂を降りたところにある、総本家更科堀井」。十番商店街でいえば六本木方面にあります。

www.sarashina-horii.com

 

 

 っとこのようなストーリーらしい。Wiki様はかなり複雑に書かれていたので、随分端折って分かり易く書いたつもりだがどうだろうか。 まあ蕎麦が美味しければ何でもいいか。

 

 

感想とか

 紆余曲折を経た麻布十番の更科系蕎麦三店だが、最近三店とも店主が代わったみたいで世代交代を感じた。個人的には一の橋にある『麻布永坂更科本店』が好み。

 麻布十番には他にも美味しい蕎麦処があり、仙台坂下にある『松玄』や『川上庵』なども有名。まさしく蕎麦激戦区だ。

 秋蕎麦を食べたくなったら是非麻布十番に足を運んでみてはいかがだろうか。

 

  そういえば、高校時代に福島へ行って自分達で打った蕎麦の美味しさが未だに忘れられない。友人2人と例の限界野営旅行をした時のことだと記憶している。

 素人が一部切ったので太さはバラバラで厚過ぎる程だったが、コシがあり、冷たくて本当に美味しかった。

 野営のせいで生死を彷徨った後だったからなのか、思い出補正なのか、はたまた、自分で蕎麦を打ったからなのかは分からないが、もう一度食べてみたいなと思う。

 将来は蕎麦でも打つかな。